HOME  会社概要  兵庫県西部朝日会  取材受付  広告をお考えの方
 



 黒田官兵衛ゆかりの地を巡るの巻(姫路市)
2010年3月号で掲載
 黒田官兵衛は、豊臣秀吉に天下を取らせた戦国の名軍師であり、自らもトップの座を狙った智将。歴代姫路城主の中でただ一人姫路城で生まれた。家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「黒田如水軒」と号した。

 播州黒田武士の館には、如水直筆の書状や黒田家の系図、かぶとのレプリカなどが展示されており、マニアが泣いて喜びそうなお宝が満載です。館主の神澤輝和さんに、黒田官兵衛にまつわる地を案内してもらいました。
 
 まずは「灘のけんかまつり」で有名な白浜の松原八幡宮を訪れました。この神社は、姫路の羽柴秀吉と三木の別所長治との合戦の時、どちら側にも組みせず、別所からは社殿を焼かれ、秀吉からは社殿の移転を迫られたそうですが、官兵衛は、松原は由緒ある地だからと懇願しそのままになったとか。「官兵衛がいなければ、神社はもちろん灘のけんかまつりもなかったでしょう」。境内にある樹齢500年を超えるイチョウの木は、そんな官兵衛を見ていたかもしれません。
 
 白浜から御着へ。御着城址に立つ公民館(姫路東出張所)は城の形の建物でユニーク。御着城は、西播磨最大の領主だった小寺氏の本城。小寺政職にその才能を認められた官兵衛は、家臣として仕えました。顕彰碑もあります。「そのころは御着城が本店で姫路城は支店みたいなもんやったから」。現在国道2号が通っている所も、その昔は城内だったわけです。城址の一角に、官兵衛の祖父・重隆と生母・明石氏をまつる廟所があります。
 
 御着から妻鹿へ。別名妻鹿城ともいわれる国府山城址へ。ここは姫路城を秀吉に明け渡した後、父・職隆と共に移り住んだ城です。標高100mほどの山に城を構え、背後には姫路城、眼前には播磨灘が広がるこの地に35歳で城を築いた官兵衛。「姫路城を秀吉に譲ったのは大きな賭けだったと思います」。城を望み、海を眺めながら、官兵衛が何を考えていたのかと当時に思いを馳せます。
 
 最後に黒田職隆廟所へ。国府山城で病死した父・職隆の墓所です。妻鹿の住宅街の一角にひっそりとたたずんでいますが、官兵衛を育てた父は妻鹿の宝、誇りだといえます。
 
 今回は駆け足で回りましたが、他にも黒田家の菩提寺である心光寺はもちろん、随願寺、円教寺などにも足跡が残っています。神澤さんの話を聞いて、ドラマチックな人間・黒田官兵衛の生涯にも興味を持ちました。



神澤輝和さん
官兵衛がいなければ今日の姫路城はおそらくなかっただろうから、姫路の恩人ともいえます。ゆかりの地が播磨にはたくさんありますのでぜひ巡って下さい。健脚の方は国府山城址へも登ってほしいです。官兵衛が見た同じ景色をここから見て下さい。
     079(245)4685 播州黒田武士の館(見学は要予約)


旧西国街道・加古川宿を巡るの巻(加古川市)
2010年2月号で掲載
 加古川宿は、古くから加古川の渡し場として街道を旅する人々の宿場となっていた所で、陣屋なども残る。今の加古川町本町、寺家町商店街かいわいでは、シーボルトを始め、頼山陽、小林一茶など多くの文化人も宿泊している。

 加古川史学会の岡田功さんに、加古川宿の面影が残る町を案内してもらいました。
 
 まずは加古川宿の東端へ。ここには「胴切れ地蔵」がまつられています。参勤交代の行列を横切った若者が真っ二つに切られたはずなのに無傷で、代わりにお地蔵様の胴体が二つに切れていたという伝説が残っているとか。本当に胴体が切れています。
 
 そこから寺家町商店街へ。昭和の面影があちこちに残っています。商店街を少し外れて「光念寺」へ。ここには俳人・栗本(松岡)青蘿の墓、顕彰碑があります。青蘿は芭蕉の流れをくむ俳人とのこと。墓碑には青蘿の辞世の句が刻まれています。光念寺を出てすぐの路地の脇に、三味線の名手で日本のベートーベンともいわれる豊澤団平生誕の地の碑が立っています。「団平は有吉佐和子の『一の糸』のモデルとなった人。加古川には、地元ではあまり知られてないけど、全国レベルの文化人がたくさんいたんですよ」と岡田さん。
 
 寺家町と本町の境目辺りに「陣屋が残っています。姫路藩の加古川役所として建てられ、大名の応接などに使われた場所。明治天皇が昼食を取られたこともあるそう。
 
 そこからレンガ塀のある小道を歩き、昔トロッコが通っていた道を抜けて、加古川沿いへ。春日神社には、主人のあだ討ちをした化け猫伝説が残っているとか。壁が真っ赤に塗られ血の色を連想させるミステリアスな丸亀神社(赤壁さん)もあります。この辺りは、日本毛織の社宅だった連続長屋のある風景が続き、映画のロケ地として使われた所。昭和にタイムスリップした気分になってしまいます。
 
 続いて「称名寺へ。付近一帯は加古川城があったところで、鎌倉時代には播磨守護所も置かれていました。南北朝時代に京の都から追っ手を逃れてきた7人の武士が、この辺りで自害したとして「七騎塚供養塔」が建てられています。塔に書かれた文字は頼山陽の書。供養塔の脇には吉田白馬の墓も。白馬は大阪で活躍した俳人だそう。
 
 旧街道沿いを巡って、加古川の意外な一面を知ることができました。次は脇の細い路地も散策したいなと思いました。


岡田功さん
加古川に来るなら、ぜひ青蘿の墓と石碑が残る「光念寺」を訪れてほしいですね。この辺りには、文化人ゆかりの地がたくさんありますから、墓碑巡りも楽しいですよ。  


   090(3966)6523

 秦河勝ゆかりの地を巡るの巻き(赤穂市)
2010年1月号で掲載
秦河勝とは、7世紀ごろに朝鮮半島から日本へ渡来した集団、秦氏の族長的人物。聖徳太子のブレーンとして活躍したが、蘇我入鹿の難を逃れ坂越に漂着し、千種川流域の開拓をした。また、能楽の祖ともいわれている。 

 
坂越のまち並みを創る会会長の牟禮宗弘さんに、赤穂市坂越の秦河勝ゆかりの地を案内してもらいました。天然の良港を持つ坂越浦は、赤穂城下よりも歴史が古く、往時はこの辺りが物流の中心だったそう。
 
 「観海楼」とも呼ばれた赤穂藩の茶屋的役割を担っていた旧坂越浦会所から、風情がある石畳の道を通って坂越まち並み館へ。ここには、坂越の見どころがパネルで紹介されています。
 坂越湾からはひょうたん型の生島がすぐそこに見え、島右側のこんもりとした森に秦河勝墓所があり、左端には御旅所、その右横には祭礼和船の船倉があります。
 
 次に秦河勝を祭神とする大避神社へ。この神社には、表に右大臣・左大臣、裏に仁王像、2対の像があるという珍しい随神門があります。そしておもしろいのは「12のミステリー。まず拝殿へ向かう階段は12段。境内の井戸は12本の石柱で作られています。この神社への初穂料はその昔12銅で、今も12の倍数が納められているとか。また神社を守る社家も12家、祭りの日程も旧暦の9月12日、その祭りの祭礼船も12隻。ぜひ見てほしい拝殿の天井絵も、12×8枚あります。坂越を愛する哲学者、梅原猛さんの石碑を囲む石も12個。「これは、河勝が12人の供人を伴っていたことからと伝えられています」。
 
 大避神社から展望広場への道には、春と冬に二度咲きする「コフクザクラ」という桜があってきれい。さらに上って妙見寺観音堂へ。この寺は8世紀中旬に行基菩薩が開山したと伝えられる寺。神仏混交だった明治の初めまでは大避神社と一体だったそう。つまりこの山全体が秦河勝ゆかりの場所。観音堂の蛙股には、方角を合わせた十二支の彫刻があります。「4枚の三角形を合わせたお堂の屋根は、ピラミッドと同方向の造り。パワースポットとして気を感じる人も多いようです」と住職の伊藤さん。
 
 海と山に囲まれた町、坂越。カキの季節に合わせて訪れてみませんか。

牟禮 宗弘さん
大避神社の境内稲荷神社前には、ヒョンノキ(学名イスノキ)という実のような不思議な、虫で変形した葉を持つ木があります。石碑に書かれた句は「ひょんの実に似たるうつぼで流れ着き」とありました。これは秦河勝が「うつぼ船」に乗って生島に流れ着いたと伝えられることから、梅原先生が詠まれた句です。この地域は、本当に見どころいっぱいです。




 坂越のまち並みを創る会  0791(48)7770


 播磨屈指の名刹「浄土寺」を巡るの巻き(小野市)
2009年12月号で掲載
鎌倉時代初めごろ、重源上人開基の浄土寺は、奈良東大寺ともゆかりが深い寺。浄土堂や阿弥陀如来及び両脇侍立像が国宝に指定されている。 

 
小野市教育委員会の中西信さんに、浄土寺とその周辺のスポットを案内してもらいました。
 
 まずは好古館へ。好古館は小野藩一柳家の陣屋跡に立ち、小野市の歴史・芸能・風土に関する資料などを収蔵、展示している歴史博物館。館内に入ってびっくり。阿弥陀様の等身大の姿を映すスクリーンが展示されています。実物を見るのが楽しみです。「予習をして行きましょう」と展示室へ。浄土寺の歴史についても紹介されていて、江戸時代の姿を復元した模型が置かれています。「浄土寺開基の重源上人は、源平合戦で焼けた奈良東大寺再建のいわばプロデューサーみたいな人。再建に向けた取り組みに着手し、その間に浄土寺の棟上げもしているんです。60歳過ぎてからの要職。すごいですよ」と中西さん。
 
 いよいよ浄土寺へ。この寺は、建物の配置にも重源上人の思想がよく表れており、浄土堂は、東大寺南大門と並び、大仏様という技法を伝える貴重なお堂。中に入るとすごい迫力。内部は外から見るよりはるかに広いし、高さ5.3mの阿弥陀様は超特大。名仏師・快慶の作だそう。西側の壁面の蔀戸から西日が差し込むと、その光が堂内の床に反射して屋根裏にあたり、阿弥陀三尊に降り注ぎ、全体を赤く染め、まるで極楽浄土が再現されたかのように見えます。これらも重源上人の設計によるもの。
 
 「12月ころからは南から朝日が入りますし、一日の日差しによってもお顔が違うんです。前から見ると目が合いますしね。お好きな方は長い間座って見てらっしゃいますよ」とお寺の人。お顔を見て手を合わせると心が穏やかになるのがわかります。
 
 その後、広渡廃寺跡歴史公園へ。ここは7世紀後半に建立された古代寺院跡で、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが確認されています。重源上人もこの辺りを訪れ、荒廃した9カ寺を再建するのは無理と断念し、諸仏を浄土寺の薬師堂に集めたそうです。西塔の基礎の上にある石の心礎は、当時のものだそう。千年以上もの間、風雨にさらされながら時代の流れを見てきたんだと思うと感慨深いです。当時を再現した縮尺伽藍模型(縮尺1/20)もあり、驚きです。
 
 86歳で亡くなるまで、精力的に仕事をし続けた重源上人。その偉業を思いながら、素晴らしい国宝を見せて頂きました。

好古館  料金:大人200円  浄土寺本堂 料金: 大人500円

中西 信さん
浄土寺からひまわりの丘公園を巡るウオーキングコースが設定されています。荘園の名残を伝える文化財にはすべて看板を立てて紹介しています。当時をしのびながら、のどかな田園風景が残る大部荘の地域をゆっくり歩いてほしいですね。
※「浄土寺周辺を歩こう」マップは小野市観光協会のホームページからダウンロードできます。
 小野市立好古館  0794(63)3390


ジョセフ彦ゆかりの地を巡るの巻(播磨町)
2009年11月号で掲載
ジョセフ彦は、本名・浜田彦蔵。播磨町に生まれ、幕末に活躍した通訳・貿易商。日本初の民間の新聞を定期発行したことから「新聞の父」といわれる。 

 
播磨町郷土資料館館長の田井恭一さんの案内で、播磨町のジョセフ彦ゆかりの地を回ってきました。まずは田井さんから、ジョセフ彦の「人となり」についての簡単な説明を。彼は幼いころに父を、13歳で母を亡くします。その直後、船員として栄力丸で江戸に向かう航海中、船が紀伊半島沖で難破し、2カ月間太平洋を漂流していたところ、アメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。その後アメリカで高度な教育を受け、日本人で初めてアメリカで市民権を得ました。帰国してからは日米の架け橋として、領事館で通訳をしたり、貿易商となって、1897年に流転の人生を終えました。
 
 資料館にはジョセフ彦コーナーがあり、彼の写真や漂流記、そして、初の民間新聞『海外新聞』の複製が展示されています。また、難破した船、栄力丸の模型もあります。新聞の仕事に携わっている私は、民間初の新聞に興味津々。木版による印刷で、田井さんによると、新聞の内容は外国の様子や物価などだったとか。リンカーンの暗殺もこの中で伝えたそうです。
 
 そして、播磨町古宮の生家跡へ。ここには看板が残るだけですが、大きな家の一人息子だったよう。少し歩けばすぐ播磨灘が広がっています。彦蔵少年は、この海を見ながら幼少時代を送っていたんでしょうね。中央公民館には胸像が立っています。
 
 その後蓮花寺へ。ここには、ジョセフ彦が建てた両親と家族の墓があります。墓石の裏側には、横文字でジョセフ彦の名前が記されています。「立派なお墓でしょう。このお墓にも彼の両親への思慕を感じますね」と田井さん。そして最後に正願寺へ。ここには「栄力丸漂流百五十年記念碑」があります。栄力丸の乗組員は17人だったそうですが、全員無事に救出されたそうです。内部でけんかがあったり、前途不安で自殺する人がいてもおかしくなかった52日間の漂流期間、規律正しい毎日を送ったのは万蔵船長の手腕によるものだとか。
 
 ジョセフ彦は新聞のあり方を「童子にも読まなん」、つまり「子どもにも読んでほしい」ものとしていたそうです。これは、今の新聞にも通じるジャーナリストとして優れた考え方といえます。日米の国交関係にも翻弄されたジョセフ彦の生涯に思いを馳せながら、ゆかりの地を巡ってみませんか。

大中遺跡まつり
 日時:11月7日(土) 10:00〜17:15   場所:大中遺跡公園

田井恭一さん
生家跡には何も残っていませんが、ここに来れば彼が「海の子」だったことが一番よくわかります。海を毎日見て育った人物が、母の猛反対に遭いながらも船員になり、その後海外貿易など海に縁のある仕事をしていた。そういう意味で生家付近も外せないスポットです。
 播磨町郷土資料館  079(435)5000


播磨の小京都・龍野町を巡るの巻(たつの市)
2009年10月号で掲載
たつの市の中心部・龍野町には、武家屋敷や白壁の土蔵が今も残っており、龍野藩5万1千石の城下町の面影から「播磨の小京都」とも呼ばれている。

 
今回は、龍野歴史文化資料館学芸員の市村高規さんの案内で、城下町龍野の隠れた見どころを回ってきました。
 
 まずは、その昔、龍野城から上屋敷があった今の聚遠亭へ行く時に殿が通ったであろう鶏籠山麓の山道へ。この山にはかつての山城の堀の跡が残っています。聚遠亭の一角には江戸中期に建設された藩主の別邸「御涼所」があり、何と戦乱時に備えた抜け穴が今も残っています。「今は大木の根が張って、通り抜けはできませんが、脇の小川へ抜けられるよう作ったはずです」。
 
 龍野神社の階段を下った所には、明治を代表する小説家・国木田独歩の父、専八の玉垣が残っています。旧龍野藩士・専八の妾子が独歩だとか。意外な文化人とつながります。 
 
 そして龍野に残る数少ない武家屋敷の一つ、旧脇坂屋敷へ。江戸後期に建てられたそう。龍野町の道は、現在の裁判所以外は、当時と変わらないそうで、町並みにもどことなく播磨の小京都と呼ばれる由縁があるわ。龍野城埋門へ上がる道の角には、童謡「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の生家があります。近い将来、市の施設として整備され見学できるようになるそう。反対側の角地にある龍野幼稚園は、兵庫県の公立幼稚園で最古参だとか。改めて龍野の歴史の奥深さを感じます。
 
 道を少し下って、伏見屋商店へ。ここは、かつて露風や三木清らも本を求めた大型書店。2階には今なお書棚が残り、回廊式の作りは古き良き時代の風情があります。
 
 最後に、龍野の隠れた名所へ。それは「思誠舎」という商人の倫理を説いた全国で唯一現存する私塾の校舎。今は、「ギャラリー結」の敷地内にあり、見学は開店時に限られますが、建築物としても貴重なものだとか。「藩も後援し、殿も通ったとされる、町を挙げての心学塾だったようです」。今回は店が休みで、外から建物の一部を見学しただけにとどまりましたが、また来る楽しみができました。

市村高規さん
江戸時代に町人が開いた学校「思誠舎」をぜひ見学してほしいですね。龍野からたくさんの文化人を輩出する素地がここにあったと思います。学問をみんなで広めようという町人の心意気があります。ガイドブックにはない見どころの一つですよ。
 たつの市立龍野歴史文化資料館  0791(63)0907


播州織のまち・西脇を巡るの巻(西脇市)
2009年9月号で掲載
 「播州織」は、各色に染め上げた色糸を使ってさまざまな模様に織り上げる先染織物。西脇市を中心とした地域に昔から栄えてきた織物で、先染綿織物の全国シェア80%を誇る。

 西脇市の地場産業、播州織の歴史やその興隆がわかる関連施設などを、北はりま田園空間博物館の長谷川俊雄さん、内橋治美さんと巡りました。

 まずは、旧来住家住宅へ。大正7年に来住梅吉氏が建てた高級民家で、国登録有形文化財です。当時は犬養毅などがよく泊まり、伊藤博文の書も残っています。母屋の大戸はクスノキの一枚戸、母屋を支えるケヤキの大黒柱、離れの天井には屋久島の杉板など、全国各地から取り寄せた最高級の材料と技術で建てられたそう。家屋の総建築費は現在の価値で54億円!でも同じ額を出しても現在建設することは不可能だそう。この梅吉さんの先代が織物業の発祥にかかわり、梅吉さんは後に神戸銀行に合併した西脇商業銀行を興し、織物業者への融資にも携わったとか。
 
 来住邸を出て、大正時代の旧家や町並が残る「ふれあい鯉ロード」へ。立派な錦鯉が泳ぐ用水沿いのこの道は懐かしい古里の風景が広がります。その途中にある「玉木新雌デザイナーズショップ」。玉木さんがデザインしたおしゃれな播州織のシャツなどが並ぶ店内は、織物の新しい未来を予感させます。
 
 小高い丘を上り、西脇市郷土資料館へ。ここには、織物工場の内部や染色作業の風景などが再現され、木製機織り機が並ぶなど、播州織の歴史を知る貴重な資料が展示されています。「こんな機織り機はどこのお宅にもありましたよ」と内橋さん。農閑期の女性の仕事に最適と、その技術を持ち込んだとされる飛田安兵衛さん、梅吉さんと一緒に銀行を立ち上げ、安い金利で業者に融資していた来住兼三郎さん。町おこしのために生涯を捧げた有志が、西脇の今を作ったそうです。
 
 資料館を出て童子山公園展望台へ。「昔は、機織り工場として建てられたのこぎり屋根の建物が町のあちこちにありました」と長谷川さん。工場は、太陽の位置に関係なく一日中内部が同じ明るさになるようすべて窓が北向きに造られているとか。これも先人の知恵の一つなんですね。
 
 それから、さまざまな商品が置かれている播州織工房館、最後は播州織のオーダーシャツなどを扱う西脇情報未来館21も見学しました。播州織の今昔を知ることができた今回の旅でした。

長谷川俊雄さん
内橋治美さん
「来住邸には、一枚板のケヤキの庭門など貴重品がたくさんあって必見です」と長谷川さん。内橋さんは「播州織のルーツがわかる郷土資料館を見て歴史を知り、播州織工業協同組合(0795ー22ー1818)に見学の予約をすれば、今稼動している工場の作業風景を見ることができると思うので、両方を見て地場産業の流れを知ってほしいですね」。
 北はりま田園空間博物館  0795(25)2370


西国街道・北条の宿を巡るの巻(加西市)
2009年8月号で掲載
  「北条の宿」は、奈良時代に建立された住吉神社、酒見寺の門前町として栄えた地。古くから山陽と山陰を結ぶ交通の要衝であり、昭和30年代までは商業と流通の拠点として北播磨地方の中心的存在であった。

 
加西市の中心市街地、北条町の中を通る西国脇街道の古い町並み「北条の宿」を、加西市歴史街道ボランティアガイドの水田加代子さんと巡りました。

 
まずは、行基菩薩が開いたと伝えられる名刹、酒見寺へ。ここは、国の重要文化財指定の多宝塔を始め、楼門など文化財の宝庫。徳川家からご朱印を賜っていること、聖武天皇の勅願寺であることから、ゆかりの寺として葵の御紋と菊の御紋が灯籠などに記されています。「両方の御紋があるのは貴重で、格式の高いお寺ですと水田さん。酒見寺に隣接して、播州三大祭の一つ「北条節句祭」(4月・第1土・日曜)でも有名な「住吉神社」があります。境内中央には勅使塚が遺されており、現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」など神事の場として使われているそう。拝殿には、南画家・田能村直入の養子、小斎が13歳の時に書いた絵「楠公決死の図」もあります。

 そして古くから「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」と歌われる「五百羅漢」へ。この石仏は、いつ誰が作ったかわからず謎に包まれているそう。まずは「ふれあい観音」にお参りを。「治してほしいところをなでたら」と言われ、今さらとも思いながら顔をなでなで。中央付近には着物姿の男女対になった仏さん、小泉元首相にそっくりな仏さん、それからエキゾチックな顔立ちの仏さんもいました。「8月8日(午6時半〜)には、霊を慰める千灯会もあるのでぜひ一度お越し下さい」と住職さん。

 通りには随所に虫籠窓、袖卯建、出桁、格子戸など、かつての繁栄がうかがえる家並みが見受けられます。特に、国の登録文化財に指定された旧家の残る横尾地区は家の間口の広さが半端ではありません。数々の寺や各所にある屋台蔵、その周辺の路地も散策の道として楽しめます。北条へは加古川から加古川線で粟生へ。そこから北条鉄道に乗り換えて行くのも風情があります。

水田加代子さん
横尾地区の端に1728年に設置された加西市最古の道標があります。そこにはさらに「右・大坂・京」と書かれた1836年設置の道標もあり、昔は、市が立ち多くの人でにぎわい、みんなが北条に行くのを楽しみにしているような夢の町でした。つまりここが流通、交通や文化の拠点だったわけです。そのころを思いながら町歩きをしてほしいですね。
域おこしイベント「北条の宿はくらん会」10月17日(土)18日(日)  北条の宿周辺
   
問い合わせ:0790(42)8740 (加西市ふるさと営業課)


お夏・清十郎のゆかりの地を巡るの巻(姫路市)
2009年7月号で掲載
 「お夏・清十郎」は江戸時代の悲恋話。姫路本町の米問屋但馬屋の手代・清十郎と、主家の娘のお夏は駆け落ちしたが、不運にも捕らえられ、清十郎は処刑。それを聞いたお夏は狂乱してしまう。後に出家して清十郎の霊を弔ったと伝えられる。井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになった。

 お夏清十郎顕彰会会長の加古昭二さんの案内で、比翼塚がある慶雲寺など姫路市野里を巡りました。

 まずは野里公民館で加古さんのお話を聞きました。士農工商という身分階級が強かった徳川2代将軍の時代に駆け落ちというのはすごいこと、清十郎が着せられた濡れ衣は今のお金で1億円ともいわれる700両の盗みだった、清十郎をはめたのは同じ米問屋の手代の一人だった!?など、今の時代と比較しながらのエピソードはとても興味深いものです。

 次に、公民館の北にある光正寺へ。ここは慶雲寺の末寺。昔の有名な歌舞伎役者もお参りした痕跡があります。光正寺の駐車場は同じく慶雲寺末寺の久昌庵の跡。清十郎が追われて逃げ込んだ場所といわれています。

 そして慶雲寺へ。比翼塚って?

 「聞き慣れない言葉でしょうけど、夫婦塚という意味です」と加古さん。本堂は、池田輝政が姫路城築城の際に使ったものと同じ木材が使われています。比翼塚の前でお参りを。向かって左が清十郎、右がお夏。この時代に駆け落ちをするなんて、どれだけ燃え上がった恋愛だったんでしょう。何だかうらやましいわ。塚の石は室町時代くらいのものだとか。何度も場所を移された後、昭和26年からはこの場所で落ち着いているそうです。塚には、お夏や清十郎のお骨が納められているわけではありませんが、この塚は但馬屋の関係者が作ったといわれています。毎年、四万六千日観音の8月9日に供養祭が行われています。

 野里は、かつて増位山・白峰山の門前町として栄えた町で、たくさんの町家が残っています。虫籠窓(換気と採光のための窓)を見ながら商店街を散策したり、姫路城の守りの一つである、ずれた道路「あてまげ」、道に対して斜めに家屋が立ち並ぶ「ノコギリ横丁」なども見学してみてはいかがでしょうか。

加古昭二さん
お夏と清十郎は、自由恋愛の先駆者ですね。この世では結ばれなかった二人が、あの世ではきっと一緒になっている。純真な愛の物語だと思っています。ぜひお祭りに来て、二人の霊をしのんで下さい。
問い合わせ:079(223)3750(事務局)


宮本武蔵・伊織の生誕地を巡るの巻(高砂市)
2009年6月号で掲載
宮本武蔵は、江戸時代初期の剣豪。二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。生涯60余回の大勝負すべてに勝利したとされる。伊織は武蔵のおいとして高砂市米田町に生まれ、武蔵の養子となる。九州・小倉の小笠原藩で、島原の乱に采配を振るい、後に筆頭家老となる。

 宮本武蔵・伊織顕彰会副会長で西光寺住職の檀上洪司さんを始め、顕彰会の役員さんに米田町を案内してもらいました。
 
 まずは西光寺に。ここには、「文武両道」と書かれた「宮本武蔵・伊織之像」や武蔵の著書『五輪書』の趣旨を生かした伝統的な枯山水庭園「五輪之庭」があります。
 
 次に生誕地碑を見ました。重さ約100tで日本一の大きさ。当初は200tの石で作る予定だったとか。題字は元首相・細川護熙さんの父・護貞さんの筆。また、武蔵が亡くなる直前に書いた遺言のような「独行道」の石碑や、宮本家13代目子孫によってここが生誕地に違いないと認めた碑、武蔵の直筆の碑などもあります。武蔵の字はとてもきれいで、拓本を取りに来る専門家もいるそう。同じ敷地内の資料館には、伊織が泊神社と米田天神社に寄進した棟札やよろいかぶとの写真、五輪書の複写などを展示しています。常時開館はしていませんが、顕彰会にガイドを頼んだ時などには見学できるそう。
 
 続いて「米田天神社」へ。旧社殿は伊織が泊神社を改築した時に、泊神社から移築したもの。趣きのある拝殿、能舞台は400年前のものだとか。決して広くない境内だけど、ここで幼少期の武蔵や伊織が走り回っていた姿を想像すると不思議な感じがします。
 
 隣接する神宮寺には、伊織が武蔵の供養のために寄進したとされる鰐口(お参りする時に鳴らすもの)が残り、今回特別に見せてもらいました。
 
 最後に「田原家跡碑」を見に行きました。武蔵・伊織の先祖は赤松家の一族で、武蔵は田原甚右衛門家貞の次男。ここから作州宮本家の養子になったとのこと。武蔵が生まれ育った田原家の屋敷はとても広く、今は幹線道路が通っていますが、その一角にこの碑が建てられています。
 
 岡山県出身の私は、武蔵は岡山生まれと聞いて育ちましたが、この地を巡るとさまざまな資料から武蔵が米田で生まれたことがわかります 毎年武蔵の命日5月19日に近い日曜日に「武蔵・伊織まつり」が開かれ、武蔵にちなんだ武道大会や書画の展示が行われる他、貴重な資料が公開されます。
 
 JR宝殿駅から徒歩約15分の米田町。ゆかりの地は近くにまとまっているので回りやすく、予約をすれば顕彰会にガイドを依頼することも可能です。

檀上洪司さん(右から2人目)と顕彰会のメンバー

武蔵は、地位も名誉もすべて断ち切って剣一筋の生き方を貫くと共に、後半生は人間的に幅広く生きたところが魅力ですね。伊織は傑出の秀才ですが、武蔵のネームバリューが伊織を押し上げていたと思います。彼らの幼少期を思いながら、米田の地を巡って下さい。


問い合わせ:079(432)6584(宮本武蔵・伊織顕彰会、西光寺)


1300年の歴史が息づく港町・室津を巡るの巻(たつの市)
2009年5月号で掲載
室津は…奈良時代に高僧行基が整備した摂播五泊(国家的な港町)の一つで、当時の面影を残す唯一の町。江戸時代には多くの西国大名が参勤交代の際に上陸し、朝鮮通信使やオランダ商館長らも寄港するなど、国際色豊かな港町として栄えた。

 郷土史料家で「御津(みつ)めて室津観光ガイド」の柏山泰訓さんに室津の町を案内してもらいました。

 まずは、江戸後期の廻船問屋「嶋屋」を改修した「室津海駅館」。ここは廻船、参勤交代、江戸参府、朝鮮通信使という4テーマを展示する資料館。建物自体に見どころが多く、ケヤキの床板や屋久杉の天井板、緩やかにカーブを施した一枚板の天井板がある屋形船之間、腰掛縁と障子、装飾と補強を兼ねた持ち送りなど、当時の豪商の裕福ぶりがうかがえます。「室津は江戸時代に2階建てを許された特別な地域。この建物は櫛の形をした櫛間、数奇屋風の造りなど遊び心満載。見えない所にお金をかけてるんです」と柏山さん。

 参勤交代の西国大名はほとんどが船で室津に到着し、ここから陸路で江戸へ向かいました。6軒の本陣があり、島津藩は1200人もが泊まったそう。海側に建っていた本陣跡には石碑が残っています。

 見性寺は、遊女の職能軍団の長、室君が作ったとされる室津で一番由緒ある寺。国指定の重要文化財「見性寺毘沙門天立像」は春の彼岸と室津祭の際に拝観できます。

 室津民俗館は室津の代表的な町家。入り口のつり上げ式二重戸、1階裏側の隠し階段などおもしろい仕組みが残っています。多くの藩札から、いかに潤っていたかがわかります。

 室津観光で絶対外せないのが賀茂神社。京都の上賀茂神社と同じ祭神(賀茂別雷神)をまつり、建物は国の重要文化財で、本殿と拝殿が境内を隔てて建つ「飛び拝殿」で、珍しいもの。参籠所から見た瀬戸内海は「美しい日本の景色」としてシーボルトも絶賛しています。同じ眺めを今ここで見てるのかと思うととっても不思議。表門の両側に井戸とつるべを示す石があります。水が貴重だった室津では、この石の間を抜けて境内に入ることで清めの手水代わりにしたとのこと。

 豊臣秀吉が大阪城築城の際に小豆島から運んだと思われる石があり、そばに、船のロープをくくりつける「もやい石」が唯一残っています。これも貴重な資料の一つ。

 ゆっくり回って3時間。歴史と浪漫を感じさせる見どころがいっぱいでした。


柏山泰訓さん
室津は、こぢんまりとした町です。路地とか高台から見る風景に港町らしい風情があり、懐の深さが残る町、車で通過したら良さはわかりません。地元の人と話をしながら半日くらいぶらぶらとして下さい




赤松円心ゆかりの地を巡るの巻(上郡町)
2009年4月号で掲載
赤松円心とは、播磨・備前・美作3カ国の守護大名で、南北朝時代の武将。鎌倉幕府を滅ぼした猛将・新田義貞が、50数日かけても落とせなかった白旗城を築いた人物。

 上郡町教育委員会の学芸員・島田拓さんのガイドで、上郡町赤松を本拠にしていた赤松円心ゆかりの地を回りました。
 
 まずは、上郡町郷土資料館へ。円心の時代の宿場町・山野里の遺跡が展示されています。山野里からは、武士やお坊さんなど身分の高い人しか持っていなかった道具類が多く出土していて、この近辺は暮らしがかなり豊かだったことが想像されます。いろんな器が並んでるけど、これらは飲んでは捨て、飲んでは捨てと紙コップのような使い方をしていたそう。
 
 次に、赤松氏の菩提寺・法雲寺へ。境内には、県指定の天然記念物で、円心のお手植えとされる樹齢700年のビャクシンがそびえています。ビャクシンは杉の一種。高さ33.5mの立派な木は、昔も今も変わらずここで乱世をずっと見守っていたのかなと思うと、歴史の重みを感じます。
 
 その後、宝林寺へ。境内の円心館には、円心・則祐(円心の三男)・別法和尚ら赤松三尊像の他、よろいやおわんなど道具類も飾られています。予約をすれば開館してくれるので、ぜひ近くで見てみて。(0791・52・1277松雲寺)
 
 いよいよ本拠地に。昆虫文化館に隣接する何の変哲もない広場、ここが円心の館跡といわれています。ここに屋敷が建っていたんだー。なぜ、この辺りを本拠にしたんでしょう? 上郡には鉱山があり鉄などが、また千種川では砂鉄が取れ、野鍛冶が行われていたそうです。金出地とか鍛冶、金内という地名はその名残です。円心は物質的にも豊かなこの地を選び、千種川の水運と山陽道の陸運を利用して物流を盛んに行っていたそうです。
 
 そして、白旗山のふもとに。なぜ、白旗城は落ちなかったんでしょう? 島田さんいわく「よろいかぶとを着けて登るには、急斜面できつい山道です。円心は、山城の戦を得意としていましたし、上からねらい撃ちしたんでしょうね」。白旗山の地形を知り尽くした円心にかかればどんな武将も手の内にあったのかなと思いました。頂上までは約1時間かかるそうなので、今回は断念。登山道の入り口には、円心の次男が建立した栖雲寺の跡が残り、山道から林に入ると7〜8m四方のこんもりとしたお堂の跡があります。そこに残る苔の付いた瓦はその当時のもの。 
 
 健脚の人はぜひ山頂にある白旗城跡を訪れて下さい。毎年11月23日には、白旗城まつりが開かれ、史跡巡りや登山も行われるそうです。


島田拓さん
円心の屋敷跡は広い平地ですが、こんな所に邸宅を構えていたんだなと、当時に思いを馳せながら見てほしいですね。地方の豪族から室町幕府の重鎮にまで上り詰めた円心は知恵と人望を兼ね備えた武将。そこに魅力を感じます。





有限会社プラスワン SUNSUNあさひ編集室
〒670-0837 兵庫県姫路市宮西町3丁目13 TEL 079(223)7004 FAX 079(223)7005